おとなの修学旅行!維新・西南の役

みなさんこんにちは、センチュリー21サグチ不動産の佐口悟です。
前回の指宿・知覧に続く維新・西南の役編です。

鹿児島市内には主に加治屋町から多くの偉人が輩出されており、その明治維新の立役者でもある偉人たちの生誕地やいしぶみをまずは訪れました。
大山巌、村田新八、井上良馨、篠原国幹、東郷平八郎など、私学校の幹部や、西南の役の新政府軍の幹部など、幕末・維新の偉人たちがこの小さな町から輩出されているのは、「郷中(ゴジュウ)」と呼ばれる教育システムがあったからと言われます。

そして加治屋町南西を流れる甲突川沿いの「歴史ロード 維新ふるさとの道」では、「西郷隆盛・従道生誕地」、「大久保利通生い立ちの地」、「大久保利通銅像」を見てまわりました。
この西郷隆盛の生誕地と大久保利通生い立ちの地は、この記念碑等の建立にあたり、発起人は記念碑と碑文を全く同等に扱い、同種同数の樹木を植えることなどの顕彰を平等に扱う配慮を立案され造られております。

朋友でもあり最後は敵として戦った西郷隆盛と大久保利通の歴史ロードにある生誕地が全く同じ造りだったことを嬉しく思いました!

加治屋町や歴史ロードを巡ったあとは、ボランティアガイドさんに西南戦争の最後の激戦地を案内いただく「西南戦争最後の激戦地 城山で西郷を偲ぶ」ツアーに参加しました!
最後の激戦地「城山」に始まり、最終本営地「ドン広場」。西郷隆盛が銃弾に倒れる最後の5日間を過ごした「西郷洞窟」。「晋どん、もうここでよか」で有名な「西郷隆盛終焉の地」。その後「私学校」、「鶴丸城跡」、「天璋院篤姫像」、「御楼門」、「西郷隆盛像」と案内いただきました。

ところがガイドさんから実は、西郷隆盛が 「晋どん、もうここでよか」と別府晋介の介錯により最後を遂げたのは「西郷隆盛終焉の地」ではなく、そこから城山へ約300m戻ったところと教えられました。
その本当の終焉の地は現在はマンションの駐車場となっておりました。
このように現地に行かないと知ることのできない事実や体験が旅の醍醐味だと感じさせられました!!!
そしてもう一つ・・・。

この写真は御楼門の石垣に食い込んでいる銃弾の破片です。西南戦争の際の痕跡だそうです。日本最後の内戦である西南戦争の後も、第二次世界大戦がありましたが、調査の結果西南戦争による弾痕だそうです。

ボランティアガイドの芝さんととても親しくさせていただき、芝さんからクイズで、鶴丸城の御楼門を復元するにあたり、樹齢300年以上のケヤキの大木がある都市から寄贈されたがその都市が大垣市だったり・・・僕が岐阜県からの観光客だからサービス問題かなと「大垣」と答えた!
僕がちょうどいま読んでいる歴史小説「塞王の楯」の話を始めたらガイドの芝さんもちょうど読んでおり話も盛り上がり、2時間のコースが2時間半と追加で案内もいただけました!!!

さて、維新・西南の役の旅を終え、次回は島津家と桜島をご案内いたします。

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